ダブルスクールは、いらない。

芳賀俊介

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芳賀俊介(はがしゅんすけ)講師

出身高校:旭川東高校

旭川医大医学部医学科6年(陸上部)

入試区分:学士編入

高校時代の栄光:

質問担当教科:高校数学・高校物理・古典・高校化学

 

 

【医師を志したきっかけ】

小さころは気管喘息にかかりやすくて、自宅の近くの日赤病院にしょっちゅうお世話になっていました。また、家にはブラックジャックが置いてあり、何気なくそれを読んでいたので、医者ってかっこいいな、なりたいなって小3,4の頃は漠然と思っていました。

【医大入学までのエピソード】

小学校のときは附属中受験のための勉強を練成会に入ってしていました。

中学は一度バレー部に入りましたが、うちの中学のバレー部は全道に行くレベルだったので練習が大変でした。個人的にはバレーが面白くて好きだったのですが、部活に打ち込みすぎてどんどん成績が下がり、塾に通っていたにもかかわらず中2の終わりくらいに「東高行けないかも」というくらいどん底まで下がり、辞めさせられました。

練成会は既にやめていたので、妹の友達のお母さんが開いていた個人塾に通うことになりました。そこでは、テキストだけ渡されてどんどん自力で解いて採点だけはしてもらい、また返され自分で回答を見て覚えてということを中2の冬くらいから中3夏くらいまで続けました。すると、問題集は5教科計15冊くらいになり、道コンでも全道上位に乗るまで成績が上がりました。学力ABCでも一番良くて学年3番を取り、東高に6番で入学しました。クラストップでした。

しかしそれまでの反動なのかそこで燃え尽きてしまいました。そしてなんとなく医者になる事への親の期待が強くなっている頃にちょうど反抗期が始まり、そこで自分が医者になりたいと思っているのか、親が医者になれと言っているからならされているのかわからなくなりました。考えるうちに、親の言うとおりになっているのではないかという気持ちが強くなって、勉強に対するモチベーションが下がっていきました。これが高2のおわりくらいまでずっと続きました。

また、その頃塾を転々としていました。親が心配して色々なところに入っては、辞めることを繰り返し、自分自身「やる気なく」という感じでした。しかし、高3のときの友達の「東大を目指している」だとか「旭医を目指している」という話が耳に入ってくると、さすがにこのままではマズいと思い、自分で問題集に取り組んだりしていました。そうこうしているうちになんやかんやと受験が近づいてきましたが、成績は鳴かず飛ばずでした。

お金の面とかは全然考えていませんでしたが、現役のときも弘前大学の医学部を受けていたので、「医学部に入るには一浪くらいある」と、浪人を決意しました。札幌の代ゼミで寮生活を始めました。

前期のうちは予備校の授業を受けていましたが、結局授業もだんだんと聞かなくなり、志望校に向けた対策というよりは目の前の持っている問題集を解きまくったという感じでした。やる気がなくなったわけではなく、授業を聞くより自分でやった方がいいなと思ってのことでした。小学校のときに通っていたくもんとか中学の塾を思い返して、あまり授業を聞くという習慣がなかったので、自分自身で問題集にcheckをつけて2週3週する方が早いとどこかで思っていました。自分のペースで進められますしね。予備校だとどうしても順番に授業があるので、それに合わせるのが面倒になりました。勉強すること自体は好きで、純粋に面白いという感覚で続けていました。特別センターに向けてとか2次に向けてとかはあまり考えずにやりました。

前期後期と札医を受けましたが全然歯が立たず、保険で東京理科大を受けていたので、代ゼミの良い先生が理科大出身だったこともあり、そこに行くことにしました。センター利用で受かっていたのですが、センターだけで合格するのも癪だったので、二次試験も受け、どちらも合格しました。そこで医者になるのを諦めました。

 

その後は東京にすみ、バンドをやろうと思い、理科大の音楽系の部活を回ろうと思って一つ目に見学したのが「歌う友の会」という部活でした。そこで一緒だった同期の一人が、僕の家のすぐ近くに、新しく塾ができるから一緒に面接受けに行かないかと誘ってきたので、いっしょに受けたところ、採用され塾講師というアルバイトを始めることになりました。そこで安部井さんというおばさんに出会いました。大学1年の秋のことです。

僕が働いたのは小中高生対象の個別指導塾で、そこでは勉強してきて自信のあった数学や理科を指導することになりました。そこからはずーっとバイトと部活漬けの生活で、大学の授業は聞かずに4年間を過ごしました。しかし、「いざ卒業」という時に、(まあ理科大は大学院進学が多くて自分も大学院へ行こうと思ったのですが)まだ医学部進学を諦めていなかった親が、医学部編入試験という存在を教えてくれたのです。まあ良いチャンスなんじゃないかと思いました。それまで機械工学を学んでいましたが、大学院はもう少し医学に関係する研究をしようと東京医科歯科大学を受験し、一年間医学の研究に軽く触れることができました。一度も生物を習っていなかった自分でしたが、本当にやりたい、学びたい学問だなと感じました。そして編入試験を受けるために大学院を休学し、バイトを続けながら編入試験の勉強をしました。

葛藤はあったと思います。なんだかんだ医学部を目指して勉強していたし、医者になるという小さい頃からのイメージが強く残っており、会社に就職してサラリーマンになるという事が非現実的で実感がわかなかった。そうして悶々としていたところに親からの情報があったので、ラッキーでした。まあだから、結局その「やっぱりなりたいな」と漠然とでも想い続けていると、なんというか、だんだんだんだんストレートではないけど医者になれる道に近づいていく、そういうことだと思います。個人的にはそれに尽きます。

時間はかかるし実際に叶わない人もいるかもしれません。ですがやっぱり「希望」を描いていれば、描いてさえいれば、「もうダメなんじゃないか、絶たれているんじゃないか」と思ってもそれは一時的な障害であって、へこたれず行動していくことで夢は叶うんじゃないかなって思います。

安部井さんをはじめとする本当に色々な人が支えてくれたことで医学部に合格し、夢が叶ったという事実は自分にとってはすごく大きなもので、後悔がないしすごく嬉しかったです。本当に自分は医者になるんだという気持ちを強くかみ締めて入学したことが、今でも楽しく、それでいてブレずに充実した大学生活を送れている所以だと思います。

 

結局この大学に入る前まで塾のアルバイトはずっと続けていて、いつのまにか主任講師になっていました。7年間指導していた経験を、旭川でも活かしたいなと思っていた矢先、現塾長の阿部と出会い、新しく一から良い学びの空間を共に作っていくこととなりました。この面白いところは一から作れるということです。アルバイトはあくまで出来上がったものの上でやるので。自分自身も色々な塾に通ってきた経験があるので、失敗もあるだろうけど、良い塾を作りたいと思っています。

旭川の教育レベルを上げて、より多くの生徒が自分の行きたい進路に向けて勉強できる場所を提供したい。そして夢を叶えて、立派な人になってもらえる手伝いが出来たらいいなと思っています。

 

【理想の生き方】

誰かの幸せに、自分が関われるような生き方をしていきたいです。

「誰かの幸せを」という発想は、小3の時に読んだブッダの漫画に強く影響されていると思います。

まんがに出てくる「一匹のうさぎ」が衝撃的でした。

寒さや飢えで今にも死にそうなおじいさんを救おうと、動物達が木を拾ってきて、火を起こそうとするシーンがあります。

動物達がおじいさんを救おうと必死になっている最中、何をしていいか解らずにうろうろしている一匹のうさぎがいました。

結果的に火が起きて、おじいさんは温まる事ができました。しかしそれを見ていたうさぎは、結局自分が何もできなかったことに対して申し訳なさを感じたのか、自ら火に飛び込み、食べ物としておじいさんに貢献したというお話です。

このシーンに衝撃を受け、「このウサギのような人になりたい」と思うようになりました。何もできないかもしれないけど、精一杯頑張れば役に立つ事が出来ると思いました。(またそれが医者という職業とリンクしているように思えました。)

それが生き方の根本になっていると思います。

きっとそのシーンが鮮明で価値観として根強いと思います。

だから今でも他者の幸せに自分が関われることが、自分にとっては一番嬉しいと思うし、それは友達といる時も、バイトしている時もそうです。

逆に自分のことに関しては全然ちゃらんぽらんなんで、それがネックです。

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